Speech Melody

(以前に少しメモったものを加工して掲載)
前エントリで「芸術は〜」と大風呂敷を広げてみたが、つつましく音楽のことについてだけ少しばかり考えてみよう。

(1)音楽について何かを話したり・語る状況をいくつか思い浮かべてみるだけで、なにか気づくことがあるかもしれない。例えば、演奏中の掛け声(演奏者どうしのものでもいい)、演奏終了後の演奏に対する評価、同定、その文字化、終わらない演奏への注意・勧告、ライブのビラのアジテーション…。これらの雑駁ではあるが注目すべき事例について、それぞれ言語学社会学などを援用して事態を分析することができるだろう。

(2)「批評家は適当なことをいう」「作品に対して難解なわけもわからない用語を使って都合のいいように物事を曲解する」このような作品をめぐる紛争はさまざまな場所、メディアで散見され、もはやクリシェのようなものになっているのだが、果たしてここで何が問題になっているのだろうか。賭け金はなんだろうか。「作者はそんなつもりで作っていない」「批評する者は彼らを誤解している」ということだろうか。つまり、ここで最も重要視される/されなければいけないことは、作者の「意図」だろうか。もしそうであるのなら、もはやこの問題は紛糾する余地などないだろう。作者自身がその意図について語ればいいのだから。*1

(3)少しはなしを変えよう。ご多分に漏れず失語症と脳のことだ。その多様な段階的症状、その発現と脳のモジュールとの対応、そしてそれらと音楽行為(聴取、反応、読譜、演奏、採譜など)との関係だ。一時期私の考えていたことは、全失語症者(しかも先天的なケース)が音楽を奏でることができるという奇跡的な事実によって、もはや消滅してしまえるのではないか、と思っていた。しかしながらよーく考えてみると、そんなにうまくいかないんだからね!残念なんだからね!ということに容易に気づくのだが、そのような過程で音楽療法のおもしろいエピソードを知ることができた。知悉されている方なら初歩的な症例であるのかもしれないが、失語症者が歌だけは歌えるという事実だ。

(4)意図のはなしに戻ろう。意図は少なくとも大事だ。という本文の意図を感じ取ってくれたまえ!…現代において創作者の意図など全く看過できる/されるべき音楽的状況がある。ポップミュージックとダンスミュージックだ。前者は「売上げ」によって、後者は「踊れる」という是認の身振りによって、とりあえずは規定されると言ってよい。

(5)批評のはなしに戻ろう。わたしも批評に対して「あいつは適当なこと言いやがる」とか「知らねーくせに権威づけに利用しやがって」とか「〇ねよ〇〇」と思うようなことがたまにある。だが、だからといってそれが亡くなってしまえばいいとは思わない。ここで複雑な心情を吐露してみたくなる気持ちもないではないが、批評がなぜ必要なのかではなく、批評がなぜこのように見向きもされずディスられてんの、ってところから考えてみたほうが、現状を把握するにはよいのかもしれない。つまりそれはネット上のインフラに起因する「他のもの」によって、批評に変わる機能がスムーズに代替されるようになってきたからだ…、といったあたりまえの事実を指摘しておくことはできる。

(6)偏執病と正義のはなしをしよう。のまえに美学の欲望について考えてみよう。芸術と美学は西洋に特殊のものだ。批評はおそらく18世紀にその開始を位置づけることができるだろう。それは局所的で決して普遍的なものではないのだ。果たして今日、美学は必要だろうか。「美」は必要だろうか。わたしは実験音楽と言われるものの一部があまり好きではない。それらのジャンルのくくり方も妥当だと思う。なぜなら出オチだからだ。*2「それ」について演奏するよりも「それ」が言葉で難なく言えるからだ。それ以上ではないからだ。演奏するよりも文章にしてあらわしたほうが簡潔で分かりやすく手っ取り早いのに(ときには莫大なコストをかけて)もったいぶってわざわざ演奏するからだ。そしてそのことについてまた語ったりするからだ!最初からそうすればいいのに、音楽と称して美のゲームをするからだ。

(7)音楽とともに移動の言葉を編み出さなくてはならない。音楽は普遍だろう。

*1:反論はあるだろうが、精神分析に注意せよ。事情は同じだ。

*2:これはメディアアートにも言えるようなことで。いさぎよく「デザイン」であるほうが何倍もよかったりしますよね。そしてうだうだ言ってる前衛さんは早く脳というメディアに電極ぶっこんだがいいですよ。他人は法律的にまだアレなんでとりあえずセルフポートレイトな感じで。