カントの場合

ひさびさに判断力批判を読んでみた。
なんていうの、カントほんとに(゜Д゜)ウマーって感じだけど。やっぱりね、なぜ美学的判断が普遍妥当性を要求し得るのか、がわからない*1。もちろん現実的にそういうことありますけど、それはおそらく資本主義と欲望の体系のうちに生きるそれとして感じるのであって。
ただやっぱり目的なき合目的性とか自然の狡知のはなしは笑っちゃうほどおもしろいし、ドゥルーズの「カント敵」発言や、『カントの批判哲学』での諸能力の置換体系とそれを「基礎づける」判断力、「不調和的調和」、『差異と反復』での共通感覚の扱いとかについて、いろいろ考えた。やっぱりカントは厄介すぎるな。これでドイツ観念論まじで読み進めて行ったらいろんな意味で人生オワタになる*2

んで、「意図」に関して。行為論とかから攻めて、アーティストをめぐる特異な帰責処理と、それを利用したネット界隈でのフェイク(たぶんいまあるのは大雑把に分けて二パターン、でも本質的には同じようなもん)について言及してみてもおもしそうだけど、それはもっと優秀な方がたぶんやってくれるでしょう(残酷でハードコアで、倫理的でさえあるようななにか、激しく期待してます)。
あと「実験」については、『文化領域における「実験」をめぐる知識社会学的アプローチ』とかどうですか(笑)「スタジオと実験室のアナロジーはどこまで可能か」「この場合〈実験〉はなにをもって成功するのだろう」とか(笑)ソフトウェア群の介入と楽理の理論負荷性ブルーノートという防御帯とか(笑)いや、これかなりやばいでしょ!エラい人に完全に怒られる!しかもおもしろそうだけどかなり身が少ない感じ!だし、たぶん科学哲学とか出すと思惑に反して当初仮説した人々の考えがかえって強化されていくというパラドックスが…。
いや、でも茶化してるんじゃなくて、こういう分野でも文芸誌的アプローチだけじゃなくて、社会化、自然化したようなものが一般的な本でもあったらいいと思うんですけどね。最近 RATIO の『思想としての音楽』読んだんだけど、これどうなのまじでってのあったし。いや、とうぜんおもしろいのもあったんだけど。輪島裕介さまの「《東京行進曲》《こんにちは赤ちゃん》《アカシアの雨がやむとき》ー日本レコード歌謡言説史序説」とか、「誌上シンポジウム「いい音」は普遍か?ー近代西洋音楽の外側から」、とか勉強になったしおもしろかった。

あと、なんだろう。誤解があったらアレなので、ちょっと書くと、「主体化しろよ」ってこといいたいんじゃないんだよね*3。むしろそれにこだわってるのはだれなの?ってことなんだよね。表現の動機、意図、目的、信念、そんなもん簡単に答えられるわけないんだよ。
信用できるのは「自分でもよくわからないや」っていうやつ。はぐらかす感じじゃなくてね。ぜんぜん無責任じゃないと思うよ。誠実だと思う。

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

判断力批判 下 (岩波文庫 青 625-8)

(快・不快の感情における判断力の美学的使用に関する理性の)アンチノミーを回避するには次の二通りの方法しかないわけである。そのうち第一はこうである、ーわれわれは、美学的趣味判断の根底にアプリオリな原理が存するということを否定する、それだから必然的な普遍的同意に対する要求はすべて根拠のない妄想である、たまたま多くの人達が趣味判断に関して一致することがあるので、このような判断がその限りにおいてのみ正しいとみなされるに過ぎない、しかしそれとてもわれわれがかかる一致の背後にアプリオリな原理を思いみるからではなくて、(味覚におけるように)すべての主観が身心に関して偶然に一様な組織をもっているからである。また第二の方はこうである、ーわれわれは趣味判断は、或る物において発見された完全性と、この物の含む多様なものと或る目的との間の関係とに関する理性判断にほかならない、したがってまた趣味判断は、けっきょく目的論的判断であるにもかかわらず、かかる場合におけるわれわれの反省が混雑しているために誤って美学的判断と称せられているのである。なおこの第二の場合に、先見的理念によってかかるアンチノミーを解決しようとすることは不必要でありまた無意味であると断言してよい、仮に趣味のかかる法則を感官の対象に適用し得るとすれば、そのような対象は単なる現象としての対象ではなくて、物自体としての対象であろう。要するにこのアンチノミーを回避しようとすれば、この二通りの方法のいずれかを取らねばなるまい、しかしどちらもけっきょく窮余の一策であって、二つながら殆ど全く役に立たないことは、さきに趣味判断の解明を試みた際に、数個所に亙って論述したとおりである。
われわれの演繹は、必ずしもすべての点において十分に明らかにされたといえないかもしれない、すくなくともこの演繹が正しい方法によって進められているということが認容されるならば、ここに三個の理念が成立することになる、即ち第一は、[われわれのうちおよびそとにある]自然の基体としての超感性的なもの一般の理念である、しかしこの超感性的なものは、それ以上規定され得るものではない。第二は、われわれの認識能力[判断力]に対する自然の主観的合目性の原理としての超感性的なものの理念である。また第三は、自由の目的の原理、および道徳的なものにおける自由とかかる目的との一致の原理としての超感性的なものの理念である。

自分自身のアプリオリな原理をもつのは反省的判断力だけであって、規定的判断力ではないということ、それだから規定的判断力は他の能力(即ち悟性)の法則のもとで図式的に処理するにすぎないが、反省的判断力の方は(自分自身の法則に従って)技巧的に処理するということ、そこで後者の処理の仕方の根底には自然の技巧という原理、従ってまたかかる[反省的]判断力においてアプリオリに前提されねばならないような合目的性の概念が存する、ということである。かかる合目的性は、反省的判断力の原理に従えば主観的なものにすぎない、換言すれば、この能力そのものに関し判断力によって必然的に前提されるのであるが、しかしそれにも拘らず可能的な客観的合目的性の概念、即ち自然目的としての物の合法則性という概念を伴うのである。

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

…われわれは決して、現象としての感性的自然が自由や理性の法則に従属していると考えてはならない。歴史をそのように解するのは、諸々の出来事というものが、理性によって規定されると、そして、ヌーメノンとしての人間の中に個々に存在している理性によって規定されていると考えることになってしまう。すると、諸々の出来事は、人間たち自身の「理性的な個人的意図」を顕在化しているのだということになってしまうだろう。だが、感性的自然の中に現れるような自然は、全く反対の事態を示している。すなわち、純然たる力関係と諸傾向の対立が、子供じみた虚栄と狂気の織物をなす、そのような事態である。これはつまり、感性的自然は常に、自らに固有の法則に従っているということである。だが、感性的自然には自らの最終目的が実現不可能なのだとしても、それでもなお感性的自然は、みずからの諸法則に沿って、この目的の実現を可能ならしめねばならない。ほかならぬこの力の機構と諸傾向の対立によってこそ、感性的自然は、人間そのものにおいても、最終目的が歴史的に実現される唯一の場としての〈社会〉の創設を主宰する。だから、アプリオリな理性的な個人的意図の観点からすれば無意味に思われることでも、人間という種の枠内での理性の発展を経験的に保証する「〈自然〉の意図」たりうるのである。歴史は、個人的な理性からではなくて、種の観点から判断されねばならない。したがって〈自然〉の第二の狡知があることになる。われわれはこれを第一の狡知と混同すべきではない(二つが一緒になって歴史を構成しているのである)。この第二の狡知によれば、〈超感性的自然〉は、人間そのものにおいても、感性的なものが自らに固有の法則に従って働き、ついには超感性的なものの効果を受けいれることができるようになるのを欲していたことになるのである。*4

2010年終わる。時の流れ早すぎる。死人はよみがえらないし、天使は一向にやってこない。

*1:その「解決」だけが理解できるというカントのいつもの(ry

*2:悟性とか構想力とか統制的、構成的とかことばのもんだいだしけいじjy…と一瞬でも思ってしまったおれはたぶん哲学徒に殴られる。

*3:どうしてそんなことが可能なのかもよくわからないし。

*4:『カントの批判哲学』文庫本での國分功一郎さんの解説のとおり、ドゥルーズは『カントの批判哲学』以後、もっぱら内官とか無規定なコギトとかについて言及するばかりでこのテーマについて取り上げることはしなかった。たしかドゥルーズは講義でルソーを取り上げたこともあったような気がするけど、それもたぶん60年代のことだろう。おそらくこのことに言及しなくなったのは、どっちにしたってヘーゲルっぽくなるからだと思うんだけど、解説の言うように、たしかにガタリと最後に「自然哲学」の本を書いて欲しかった。