まえの続きだよ

実験音楽ってなんかやべー言葉だな(笑)ウィキペディアに「実験音楽のバンド」ってカテゴリーがあったんだけど、あれ、ほんとすごいですね(白目、ちょっと血出てる、今日あんま寝てない)
あれですよ、固有名は出さないけど一部の範囲のものですよ。前エントリーの、『わたしは実験音楽と言われるものの一部があまり好きではない。それらのジャンルのくくり方も妥当だと思う』っていうのは、それらの一部のものに対して「ほんとにー実験音楽だわねー」と揶揄してるわけで…、実験音楽の外延(とされているもの)すべてを射程にしているように読める感じだけど、そういうわけではないのです。そうですね、とりあえず補足的になんか書いてみましょう。
んで、まず実験音楽の祖とされるジョン・ケージのことですが、わたし的にケージは「音楽家」ではないんじゃないかなーと思ってます。これはとても重要なことなのではないかなーと思うのですよ。ただね、そうは言ってもやっぱり気になるのはケージの定義による実験音楽の「実験 experimental 」のことなんですが。これは「サイレンス」に直接あたってみないことには、はっきりとは言えないんですけど、ネットで調べてみると…「実験とは結果が予測できないことである」とあります…。うーん、これちょっとどうなのかなー、と思うのですよ。そしてその衣鉢を継いで呼称としてそのまま流布してしまっている現実的状況も、うーん、これまたどうなのかなーと思うわけです。むしろ「不確定性」「偶然性」の音楽とした方がまだいいような気がするのですが。これについては後々また出てきますので。
んで出オチの件ですが、もう一度断りを入れておくと(笑) 前エントリーでは「あまり好きではない」と書いていて、わたくし「嫌い」とは言ってないようですね…(笑) いや、まじで、ほんとうに一部のものですからね。ヘリコプター使うとかね、マージャンやるとか、寝るとか*1 そういうやつですよ。(←いやぁ、なんだかんだけっこうそういうのフォローしてるじゃないですか。けっこうな悪趣味をお持ちじゃないですかェ)…まぁ、わたしが感じてることを書きましょう、書きましょう。

えーっと、まず、それらの「実験音楽」とされる演奏、作品があります。そして、鑑賞者、批評家、評論家、受け手はその表現に対して、そこで起きていること/起きたことの記述をし、なにか感想、意見を持つわけですね。そしてそれに対して「実験音楽家」は抵抗するわけです。へんな言葉で語るな、そんな風に言われるのは心外だ、等々、と。まぁここまではいいですよ、ここまでならどんなアーティスト、音楽家だって、同じようなふるまいをしてみせたりするわけですから。んでちなみにその記述なんですが、べつに突拍子もないことを言っているわけではないのです。むしろ精度からみたら妥当なものだと思います。(というよりか、その音楽家たちは意図的に、何のことはない行為をしてみせているわけです)*2
はい、んで、ここで、まっさらな気持ちになって、思うのですよ。はたしてこの「実験音楽」の「実験」とはなんのことだろう…と。これは「即興演奏」とはだいぶ事情が違うものですよ。(即興演奏において、「相手の音を聞かない」というアレな命法がありますが、これなんかはかわいいもんです)

つまりこういうことです。それらの「音楽」は記述に対して抵抗するんですね。しかしながら、それにおもいっきり依存するようにして楽曲を構成しようとするのです。どうですかー、なんかこう、現代に生きるわれわれの心性を強烈に利用する、ニヒリズムめいたものを感じませんか(笑)
これがクリティカルってことなんですかねえ。そうであるのなら、やっぱりあんまり好きではないんですよ、そういうのはね。もしかしたら、これ、むしろ、わたしが、釣られているんですかね(笑)…なおさらだよほんとにという感じなんですが。 これべつに実験音楽と自称しなくてもおんなじですからね。実質的なものなのです。

わたしはですね、その言語ゲーム的状況についてとやかく言うつもりはないのです。というかですね、現在の音楽環境は、その形式/実質をめぐる「美」のゲームによって現代音楽まで発展してきた歴史の延長線上にあるわけで、調性の拡張や音色の追求も、とうぜんその一貫として捉えられるわけです。しかしながらその歴史の条件とその極限的展開のうえで、無知なのか、ありがたがってるのかよくわからないけど、その状況を密輸入してクリティカルだ、実験的だ、なんて言ってるのが腹立たしいだけなのですよ。それならわざわざ「演奏」などしてみせないで、文章で「こうして」、そして「前エントリー」みたいに、書いたほうがいいと思いませんか、わかりやすいと思いませんか。 「音楽でしかできない」なんて、「言うのも憚るくらい」当然のことなのですよ。 そして、「結果が予測できないことである」のは、べつに「実験」だけではないのです、どの音楽だってそうでしょう?わざわざ三千円払って、まずいカクテル飲まされて、ただ牛乳瓶積んでるだけなんですよ。*3

ああ、あとメディアアートについてですが、こちらのほうはですね…プランとかがなんか見えすぎちゃっていて、あんまり驚けないことが多いかなって気がするのです…(メディアアートってそういうのじゃないの、おどろきがあるもんじゃないの、ひんこんなかんせいをろててるのぼはくのもるねむしり)…まとめるとですね、現実が凄すぎてアートがそれに追いついていないってことですかね(爆

→ここで筆者の眼球が飛び散り、パーソナルコンピュータごと爆発、壁にシンメトリーの血痕模様、虹色の蝶、光り輝く少女の睫毛と、それに守られた眼球の中で蠢く死体兵たちの、此世に残した最後の微笑。つまり地図だ。

追記1:ダァーっと書いて、んて時間置いて読みなおして気づいた。ケージ以後のソレ系のやつって、ザックリいくと、「実験」を結果の予測不可能性ではなく、演奏行為の原因の遡及、ひいては因果連関の破棄として捉えようとしている、ってことかもしれないな。つーかそうだろ。まぁ、懐疑論のお遊びというか。ここで脚注2の追記2ですよ。なるほど(笑) これは堂々巡りだよなーほんとうにー。マジたちわりーよー、俺が堂々巡りしてるんだよー。寝てないんだよー。朝になっちゃてるよー。もうアタマパンパンしてるぅ。ヌチャヌチャヌチャヌチャ、これウラね、ウラで取ってね!
*4
…えーっと、ただね、ケージのことなんですが、そういうことではないんじゃないかなーと思うんだよねー。これは前エントリーのところと関連してくるはなしだけど。おそらくケージに、そして音楽に忠実であるのなら、まずなによりもそれは、出来事の因果連鎖を一瞬でもいいから解き放とうとしてみせること、なんじゃないのかな。そして、それはべつに「実験」だけで起きていることではないのですよ。*5 詩的すぎますかね。でもこれはしょうがないよね。そしてここいらへんが、ケージが音楽家ではない所以、だと思うわけです。
…しかしあれだな、なんか本文読みにくいな、いろいろごちゃごちゃしてるし、もっと簡潔に書けたな。もはや本文に登場する「実験音楽」もフィクションでもべつにいいような気がしてきた、途中から、なんかもう呻きみたいだね。まだ続くかも。

*1:寝ちゃうとかならいいねジョアンみたいに。

*2:(追記2:ハハハハハハハハ)

*3:聖霊が降りてくるのなら許す、つーか演劇にしてもっとおもしろくしてくれ、そのほうがいいだろ。

*4:(追記3:ここで、自動手記によって、架空の国家の架空の戦争と、冴えない男子高校生のありきたりの日常、つまり「運命」が描かれるのだが、それは一言で言ってしまえば、萌え死のことであり、決してなにか重大なことが起こるわけでもなく、学園の平和は妹たちのパンチラさえない戦闘シーンによって、しっかり守られているのである。しかしながら、それらは大量の記号列(ごく少数の規則と文字によって記されているのだが、日本語に変換するには、京都にあるはてなダイアリーのサーバーを、破壊するほど)によるものなので、全カットした。)

*5:(追記4:だからなおさら、「実験音楽のバンド」のカテゴリーなんて概念的混同があるし、それは無意味なわけだ)